裕希ヒロのプロフィール
はじめまして!裕希ヒロです。
私は、会社員をやめて独立したばかりの「何者でもない人」です。
生きるために、ひとまずIT業務のコンサルティングで生計を立てています。
このブログでは、つい先日まで会社員としてフルコミット状態の社畜だった私が
「発信力ゼロのシステムエンジニア会社員がWEBマーケティングのスキルを手に入れたら稼ぎは増えるのか?」
を検証するために情報を発信しています。
何を考えて堅実ド安定の大手優良企業人生を投げ出し、後ろ盾が何も無い大海原に飛び出す決断をしたのか?
この自己紹介ページでは、私がどのような生い立ちで人格形成をして今に至るのかをお伝えできればと思っています。
- 年齢40代に差し掛かろうとしている最後の時期(2024年現在)
- 地方私立大学卒(理系)
- 15歳にて初めてパソコンを手にし、インターネット文化と共に成長
- 新卒で大手インフラ企業に就職し、一貫してIT専門部署に勤務
- マネージャー職を経験後に退職し「独立」という生き方を体験中(現在)
誕生
私は日本海に面した、のどかな田舎町の、典型的な昭和家庭に誕生します。
地元の工場に勤務する父と、パートで働く母、そして少し年の離れた弟。傍から見ると一般的な家庭に見えたと思います。
しかし家庭内は少しばかり歪でした。自分の娯楽が最優先で家計には関心がなく仕事嫌いの父、対して理想が高く過保護な母。
その歪さには、幼い自分が気づく由もありませんでした。
小学生時代: 変わりゆく自己認識
幼少期の私は勉強もスポーツも大好きで、自信に満ちあふれていました。
しかし、時が経つに連れてやんちゃな行動が目立ち始めます。
授業中に騒いだり、同級生の女の子を泣かせしまったり、男同士でぶつかりあったり。
そのくせ、少しでも嫌なことがあれば母親に言いつけて、大人に叱ってもらう卑怯者。
新任の若い女性教師が顔を歪めて困っている姿。
次第に教師やクラスメイトからの視線が厳しくなっていきます。
疎まれないわけがありませんでした。
時間が経ち、高学年になると周辺のリーダー集団との壁を感じるようになります。あるとき示し合わされたかのようにクラス委員に推薦(押し付け)されるものの、いざなってみると多くの人は言うことをきいてくれない。
人望ゼロ。
それまで完全に調子に乗っていたのです。
自信は次第に脆く崩れていき、内向的な性格に変わっていきました。
たまに学校へ行くことが気持ち悪くなる日もあり、仮病を使って休むことも増えました。不登校にまではならなかったものの、その嫌な思い出が強烈に残っていて、それ以外のことは何も覚えていません。
最後に残ったのは、落ちこぼれた自分でした。
中学と剣道: 激動の日々
中学へ進学するときには何の特徴もない、地味な人間でした。
入学早々は部活動の勧誘が賑わいます。強制入部ではないものの、ここで帰宅部だと尚のこと孤立してしまう危機感もうっすらと感じていました。クラスのリーダー集団は、バスケットボールや野球など、人気があり格好のいい血気盛なスポーツを好みますが、私はそのようなリア充集団を遠ざけていました。
周りが次々と部活を決めていくなかで、偶然、校舎の外れにある「武道館」に足を踏み入れます。
そこでは剣道専用の広い練習場がありました。当時その中学校では同地区での強豪で、多くの大人が指導してくれる環境があったのです。
「リーダー集団が全然いないから、ここでいっか」
見学の流れのまま何となくの気持ちで、剣道を始めることになります。
ド素人の奮闘
完全な初心者が半分、幼少期からの経験者が半分の部員構図でした。
剣道は “5人からなる団体戦” と “個人戦” にて争われます。5人の枠は、基本的には経験者で占められます。実際に、経験者との実力の差は歴然でした。
しかし、練習は経験者だろうが初心者だろうが容赦なく公平です。熱血的で情深い監督の指導の下、急成長を遂げていきました。
とにかく辛い日々でした。武具をつけるため真夏は灼熱地獄のように暑く、冬は雪国の冷たい武道館を裸足で走り回るために非常に寒く、毎日がとにかく過酷でした。特に「掛かり稽古」と呼ばれる、100%のパワーで相手を攻め続ける練習が毎日の苦痛でした。全力で1分間動き続けるだけでも精一杯なのに、1分毎にペアの相手と交代しながら30分ひたすらに攻め続けるのです。
あまりの苦しさに過呼吸を起こしてしまう人もいました。今すぐにでも投げ出したくなる瞬間が幾度となく襲ってきます。
それでも、思考能力が崩壊していても
「あと少し、、、逃げたくない」
その一心だけで手足を動かし、練習の場に立ち続けていました。
世代交代
そんな地獄の訓練をひたすら続け、中学3年生となり世代交代を迎えます。 部活の代表である主将は誰もが認める実力派からの選出、異論はありません。
そして副主将の任命。
監督から指名されたのは他の実力派ではなく、私でした。
部員からも笑顔と拍手で認めてもらいました。
『小学生の時に押し付けられたクラス委員とは違って、仲間として認められた。』
皆の期待を背負ってがんばろうと、より一層気合が入ります。そして最後の夏の大会でも、初めてレギュラー入りすることができました。自信に満ち溢れ、この調子で何でもできてしまうのではないかとさえ思えました。
チキンのままだった
各部活動の夏の大会が始まる直前、全校集会で大会の意気込みを宣言する場が設けられます。
基本的には各部活動の代表者(キャプテン、リーダー、主将)が意気込み宣言をするのですが、我が剣道部の主将は他の委員長も兼務しており、主将は委員会側の演説をすることになったため、剣道部の宣言は副主将である私が指名されました。
部員からは
「お前が宣言するんだってな!しっかりキメてくれよな!」
何人からも肩を叩かれます。その度に強烈なプレッシャーを感じていました。そして部活動の宣言の時間、各部の代表、あるいはその代理が続々と壇上に整列していきます。この時、私は席から動くことができませんでした。
「いやそこは主将のお前がやる場面だろ!!いってくれよ!!」
必死にアイコンタクトで主将に擦り付け、主将は慌てて壇上に登っていき、そして淡々と宣言をこなしています。その宣言の間、呆然としていた私は、主将が何を言ったのかを全く覚えていません。
1学年あたり150名、全学年で500名にも満たない中学校の体育館で、たったの1分程度の宣言をするだけなのに動けなかった自分が恥ずかしく、そして情けなく、意識が戻った時には全てが終わっていました。
燃え尽きた
夏の大会はというと、第1大会、第2大会ともに勝ち上がり、第3大会の県大会に出場します。
監督もこの中学校での任期は既に終了していて、剣道部のために無理やり1年を延長している状況だったため、熱の入り方が違います。本気で県大会の上位入賞を狙っていました。
予選2試合のうち、第1試合では自分は “押し出されての場外反則” にて失点してしまいます。正々堂々と剣道として勝負をして負けたのではなく、反則負けをする体たらくに監督はガチギレ
「何やってんだお前!!!しっかりやれよ!!!💢」
本気で殴られました。
剣道のお面をつけたままにも関わらず監督からは素手で殴られ、3メートルほどぶっ飛ばされます。
第2戦は別のチームでしたが、第1戦にて “押しに弱い” ことが見透かされていて、またしても場外反則をもらってしまいます。あと1回もらったら反則負けの状況です。
「ヤバい、同じ負け方をしたら、次はいよいよぶち殺される・・・」
恐怖もありましたが、それ以上に、チームの仲間に対して申し訳なさすぎて、何としてでも一本を取り返したい一心で怒涛の反撃を繰り返し、なんとか引き分けにまで挽回しました。試合を終えて待機場に戻っても、監督は何も言ってくれませんでした。
結局、チームは負けました。
団体戦は5人での勝負なので、誰かひとりだけの勝ち負けがチームの勝敗を決めるものではありません。しかし、メンバーひとりひとりの勝敗はチームのモチベーションに大きく影響する繊細な競技です。
私が足をひっぱったのは自明でした。
ド素人から始めて3年間でここまで成長した自分を褒めてあげたいと思う以上に、不甲斐なく、とにかく悔しさだけが残ります。挫折は私に深い絶望を与え、剣道への情熱を失わせました。
チームメンバー、そして監督の期待を裏切ってしまった。
本当に辛かった。
中学生で剣道をはじめて自信を取り戻せたと思ったのに、結局はただの落ちこぼれだった。
自信は完全になくなり、自己肯定感は地の底に落ちきっていました。
その事実に気づいた自分は、更に内向的な性格になっていくのです。
中学青春の余韻: パソコンとの出会い
県大会を終えて剣道部を引退。その頃、多くの部活動は地元地区大会で引退するため、周りははひと足先に受験勉強モードに切り替わっていました。
当時の私は部活動引退後の余韻で抜け殻も同然です。大学進学には全く関心を持っておらず「高校を卒業したら地元で就職するんだろうな、親も手に職つけろってよく言うしな」くらいの認識で、工業高校への進学を選びます。
地方での工業高校はそこそこ人気であるものの、勉強熱心な学生は普通科に進むため、それらに比べてば簡単に入学できる部類でした。相応には学力は足りていたので、受験勉強期間は娯楽で過ごします。
叔父からのプレゼント
部活動がなくなって、ぽっかりと空いた時間を過ごしていたある日、叔父が「パソコンを買ってやるよ」と言い、買ってきてくれました。
当時「10万円を切るパソコン」というキャッチコピーが珍しい時代
1台 99,800円
Windows 98, CPU Celeron-466MHz, メモリ 64MB, 6.4GB HDD
初めてのパソコン。買ってもらったはいいものの、何をすればいいのかわかりません。
まだまだVHS(ビデオテープ)や CD-ROM が全盛期のこの時代に、パソコンにはDVDドライブがついていたので、レンタルビデオ屋でDVDを鼻高々に借りて映画を見る程度。
今でこそ24時間常時接続が当たり前のインターネットも当時の状況は全く異なります。
都市部ではADSLやISDNでの常時接続が普及していましたが、田舎ではまだ電話回線での接続。「ピー・ギャラギャラ・ヴィーンヴィーン・・・」という接続音のもと、1分くらいの時間をかけてやっとインターネットに繋がります。
接続している間は電話をし続けている状態と同じなので従量課金で高額になってしまうし、その間は家の電話を使えなくなるため、接続し続けることはできません。接続をした瞬間に Internet Explorer を大量に起動して少しでも多くのホームページにアクセスをして、固定電話の従量課金単位である3分が経過する前に切断し、そこからゆっくりと手元のホームページを眺め、電話代を節約します。
うっかりポルノサイトに足を踏み入れようものなら「国際電話」に接続され、ものの数分間で5千円という高額料金を請求されます。親に1回だけ「ごめんなさい」をしました。
そのような使い方が精一杯で、とてもパソコンを「使っている」とは言えないレベルでした。
貴重なパソコンを持て余したまま高校に進みます。
高校生活とインターネット
高校は、思惑通りに工業高校の電気科に入学します。
中学時代の剣道部の先輩も在籍しており、当然のように剣道部からの勧誘がありましたが、既に情熱が焼き尽くされて灰になっていたので全く感心ももたずに帰宅部となりました。
最初にできた仲間のグループは、ちょいグレ感のある、陽キャで雰囲気の集団でした。毎日当たり障りのない会話をして過ごす日々。
根が暗い自分にとっては場違いで、決して居心地が良い場所ではありませんでした。
授業が終わって家に帰っても暇なので、学校帰りに本屋でパソコン雑誌を読みふけっていたところ、Yahoo!オークション(ヤフオク)に興味を示します。
2000年当時のヤフオクは手数料が全くかからなかったため、インターネットで商品を売り買いできることに熱狂しました。
商人としての目覚めの原点
ヤフオクを見ていると「ゲーム機の改造部品」が売られていることに気が付きました。その部品は電子部品なので、ゲーム機の基盤を剥き出しにして “半田ごて” を使って接続する必要があります。
高校は電気科で半田ごてを利用していたこともあり、高いゲーム機を壊してしまうかもしれないリスク以上に「やってみたらどうなるだろう?」という好奇心が上回り試してみることにしました。
いざ部品が到着し、剥き出しになった基盤の、非常に小さい部位をいくつかの半田で接続します。その手は震えていました。
結果は大成功で、改造した機能が期待通りに動作しました。
そのスリルが楽しくなり「もっとやりたい!」と思うものの、そう何個もゲーム機を持ち合わせていません。
そこで、ヤフオクで “改造代行” の仕事を出品しました。
仕入れは電子部品、工賃は自身の半田ごて。その手間賃は1万円。
大人になって考えてみると失敗リスクは全く考慮されておらず、ほぼタダ働きのような価格設定でしたが、当時は「作業ができることが報酬」だったため、金儲けなど二の次でした。
数台の改造代行をしたところで早々に飽きたので、微々たるお小遣いを得た程度で、人生で初めての商い体験は終わりを迎えます。
サプリメントに化けた悪魔
相変わらずヤフオクに入り浸っていると、過去取引をした相手からサプリメントの紹介を受けました。
「熱帯雨林に存在する植物で健康によいもので、月額1万円で定期購入ができます!さらには、これを紹介すると紹介した人の数だけ紹介料が還元される仕組みなので、実質無料どころか大きな収入が得られます!!この収入だけで生活をしている人もいるんですよ!!!」
MLMとの出会いでした。
その時に、MLMとは何か、ネズミ講とは何か、MLMとネズミ講との違い(違法性の有無)を学んで手を出すことになります。
もちろん若かりし自分が健康に不安などあるわけもなく「楽に稼げる」というキャッチコピーに目が眩んでいました。
紹介するからにはと、商品のサプリも毎日摂り続けはするものの目に見える変化はなく、効果は全く判断不能でしたが「毒ではないんだな」くらいの認識で、紹介をすることにしました。
いざ紹介しようと思うと、どこから手を付ければいいかわかりません。
田舎のクソガキが大人相手に対面で紹介できるとも思えず、ましてや会いに行くための移動手段も予算もない。
そこで同じく、ヤフオクで過去にやり取りした方や、情報発信メーリングリストのCCにいる知らない人に手当たり次第の連絡を試みます。
「健康によくて、そのついでに紹介料で収益をあげることもできるんです!」
私が興味を持った言葉をそのまま転用して営業をしていました。
結果、半年ほどかけて数名の人から購入してもらいましたが、ふと冷静になりました。
自分が心底惚れ込んでいるわけでもない商品を販売することのつまらなさ。
この商売に正義はあるのだろうか?
率直にいえば「飽きた」だけなのですが、このタイミングを境に最初で最後のMLM体験は終りを迎えます。投資額は月額1万円の商品代金の数カ月分と営業労力のみ。
この経験が、将来はじまる東京生活にてMLM集団に巻き込まれるのを回避する免疫になったので、結果的には非常に安い勉強代となりました。
新たな仲間との繋がり
進級すると卒業後のことも考えるようになり、手に職の資格を意識しはじめるようになります。 “危険物取扱者” や “電気工事士” の資格習得のための補習クラスに参加していると付き合うグループも変化しはじめ、私の周りにはパソコンでゲームをしている新たな5名の仲間との繋がりができました。
彼らはパソコンでゲームをしていたり、そのゲームを快適にするためにパソコンを自作していたり、パソコンを娯楽として使いこなしていたのです。
ここから “インターネットでの遊び方” を知っていくこくことでに、本格的にインターネットにのめり込みます。
顔のないコミュニケーション
インターネットには無数の “生の人” が接続していて、人間の数だけ感情が渦巻いています。インターネット黎明期の匿名性が強かった時代は特に顕著でした。
2ちゃんねる(現5ちゃんねる)という電子掲示板コミュニティに入り浸っては、様々なニュース、ゴシップ、趣味、インターネット関連の情報を読み漁りました。フェイクニュースや煽り合いが日常茶飯事のなかで「インターネットという信憑性の低い情報の海で、何を信じるか」の目が鍛えられました。
電子掲示板を軸に全国の人が交流する文化を知り、そこに入り浸っていると、自分でもコミュニティを作ってみたくなりました。
「ホームページってどうやって作るんだ?」
HTMLを勉強しながら、当時の歌姫であった浜崎あゆみのファンサイト(非公式)を作成しはじめます。
サイトには新曲情報や掲示板を設置し、たくさんのコメント投稿をしてくれる常連さんには専用アイコンをプレゼントする仕組みで運営し、1日あたり500名の人がアクセスしてくれるホームページに成長します。
「もっと良くしたい・人に来て欲しい」という想いで学び続け、ウェブデザインやサーバー運用にも興味を持ち始めました。無限に湧き出す好奇心の泉に、貪欲に貪り付いて学習をし続けました。
ハイパー大学生との出会い
その頃、同じようにコミュニティを運営している関東圏の大学生(ハイパー大学生と呼びます)と知り合い、仲良くなります。その人はいくつものホームページを運営していて、そのなかのひとつのアイドル関連のサイトでは、ホームページのトップページの広告枠を月額100万円以上の金額で販売していたのです。
広告単価を決める唯一の指標は「アクセス数」のみ。極めてシンプルな構図でした。
ハイパー大学生は自分で好きな車を買い、外食にも一切の躊躇いもなく、旅行も生きたい時に行く。
「大学は卒業さえできればいいから、もう適当よ。卒業したらアメリカ留学でもしてみようと思ってるんだよね!」
当時高校生の自分には、とても眩しい存在でした。たったの片手で数えられる年数しか離れていない学生なのに、別世界にいる大人に見えました。
「かっけー!オレも言ってみてー!!がっつり稼いで金を使いまくりたい!!!」
そう思って、自分でもその運営の真似をはじめます。そのためのスキルは既に持ち合わせていました。当時運営していたファンサイトのノウハウそのまま「ただやりゃいいだけ」で、再現性は非常に高かったのです。実際、アクセスが1日に1,000ユーザーになってきた頃に広告業者からの連絡もきはじめました。
はじめての広告の打診は月額10万の打診でした。
「いや、そんなんじゃ一桁足りないぜ!
大金持ちに、オレは、なる!!」
まさに、金に目がくらんだ猿でした。いくつかの広告の打診をシカトして、ホームページの充実に努めます。
ところがどっこい、人生を変えたとも言えるネットゲームとの出会いによりホームページの運営を投げ出すこととなり、日に日にアクセス数は減少。収益をあげることをなくその挑戦は幕を閉じることになります。
ネットゲームでの堕落
高校3年目の夏、MMORPGと呼ばれるジャンルの、とあるインターネットゲームがリリースされました。
友人の紹介で誘われるがままにゲームに触ってみると、新世界の扉に衝撃を受けました。
「目の前にいるキャラクターには、誰か別の人間が入っている・・・!」
家庭用の据え置き型ゲームでは、主人公の自分以外はNPC(非プレイヤー)です。そんな世界しか知らなかった人間が、何万人もの人間と同じ空間でゲームをしている状態を知った時の衝撃は計り知れません。
「インターネット越しでの人間のコミュニケーション」と「ゲーム」が組み合わさった瞬間でした。
市街地ではISDNによる常時接続が完備されていましたが、田舎では未だに従量課金のままです。従量課金でMMORPGなんかで遊んでしまえば通信料金が悲惨なことになるため、どうしたものかと考えます。そこで “テレホーダイ” と呼ばれる仕組みにたどり着きます。
「テレホタイムなら常時ゲームができる・・・!しかも深夜帯なら電話の心配もいらない!!!」
そこからというものの、23時になったらゲームを始め、深夜3時頃に寝る生活が始まります。学校へ行くには6時に起床しなければならないため、明らかに寝不足です。
するとどうなるか?
学校では最前列に座っていながら、教師の前で堂々と爆睡するクソガキが爆誕します。
学校にはちゃんと行くし、赤点をとることもないものの、学業は二の次になってしまいました。
大学進学をするつもりはないため「卒業できりゃいいよ」と割り切ってゲームに全振りします。
ネットゲームで楽しみながら稼ぐ
MMORPGでの楽しみ方は人それぞれですが、私はキャラクターの「レベル上げ」が特に好きでした。コツコツと積上げた分だけ、その成果は必ず自身に返ってくる(キャラクターが強くなる)。
このようなゲームでは複数の職業(ジョブ)が用意され、ジョブごとに異なる操作性を楽しむことができます。しかし、やり込みすぎた結果、やりたいジョブの全てをレベル最大値まで上げきってしまったのです(カウンターストップ:カンストと言う)。
もう自分のキャラクターのレベル上げはする意味がない。だけどレベル上げは楽しいのでやりたい。
どうやって欲望を満たそうかと考えていたところ「レベル上げをして欲しい大人」 がいることに気が付きます。日々の仕事に忙殺され、昼はもちろん、夜もろくにゲームができない大人達が育成代行を依頼する市場があったのです。
「ゲームの醍醐味であるレベル上げを金で代行してまで求めるなんて、大人ってなんて惨めなんだろう」
クソガキながらにそんなことを思いながらも、レベル上げをしながらお金を得られるチャンスを見過ごすわけがありません。
2週間ほどの時間をかけて対象のキャラクターのレベルをカンストさせる。報酬は4万円〜5万円。
「家にいながら、自分の好きなゲームで、自分の好きなタイミングで稼ぐことができる」
周りの高校生はコンビニ等でのアルバイトで盛り上がるなか、それら一般的な仕事には全く関心を示さないまま、何件かの育成代行でお小遣いを稼いでいました。
大学進学への感心
ゲームに明け暮れながら、いよいよ高校生活も半年を残そうかという時期。
周囲の大多数は「就職組」であるなかでの、極一部の「大学進学組」も存在していました。
大学進学組の話を聞いていたら、急に大学に興味を持ち始めました。
当時、何を思ったのかは定かではありません。
就職が嫌だったのか、それとも単純にゲームをしたかったのか、それとも親元を離れたかったのか。
そして、思いついたかのように親に相談します。
突然の相談内容が重たすぎて、家計管理を担っている母親は思いっきり面食らっていましたが、数分間の沈黙の後、了解をしてくれます。
さて、親からの了承を得たものの、果たして受かるのだろうか?
こういう時に根拠のない楽観性で物事を考えてしまう悪い癖があり「なんとかなるでしょ」精神で突撃します。
最初のチャレンジは「推薦枠」での受験です。挑戦権は得るも、ボロボロの結果で不合格でした。
この時点で相当にマズイ状況です。
受験のための勉強などしてきませんでしたし、ましてや工業高校のため専門科目が多く、普通科の学生が当たり前のようにやっている科目を習っていませんので、とても受かる気がしません。
とはいえ、やるしかありません。
年末年始には赤本を開いては
「なるほどわからん」
と、ただただ時間が過ぎていき、一般入試を迎えます。
手応えは全く感じないまま、とりあえず答案を埋めるだけ埋めて帰りました。
・・・・合否通知の日
第一希望学科は不合格でしたが、第二希望学科には合格していました(何で受かったんだろう)。
大学生活と就職活動
晴れて大学生となり、一人暮らしがスタートします。
学費以外の生活費は全て奨学金(有利子)を期待しているため4年間で400万円相当の借金規模になりますが、相変わらずクソガキな自分は、その重みがわからずにあっけらかんとしていました。
より悪化するネットゲーム中毒
大学に進学したものの、私の生活は大半をゲームが占めていました。授業以外の時間はほぼ全てゲームに費やし、同級生との交流も講義以外にはほとんどありませんでした。
「入学してからの方が大変」と言われる大学だったため、講義はもちろん、工学実験やレポートの嵐でなかなか大変でしたが、大学へは徒歩5分の立地だったことが幸いし、やるべきことはこなしました。
結果、単位はひとつも落とすことなく取得することができたものの「授業以外の時間は少しでもゲーム。講義の間に1時間でも時間があれば一旦帰宅してゲーム。」の生活だったため、成績は決して良いとはいえず、平均レベルをキープするだけでした。
一方ゲームでは、価値観多様なプレイヤーとの交流が楽しく、どんどんのめり込みます。
レベル上げ好きが功を奏して、そのゲーム内の上位0.1%に上り詰めました。ほか、自身が10代の若造でありながら50人規模のギルド(チームが巨大化したもので、組織に近しい単位)のマスターとして、年齢層が10代〜30代までの多様な人達とのコミュニケーションの中心となって、組織運営の仕組みを作りました。当初は「自分がマスターなんだから全てのことを理解してこなさなくては」と抱え込んでいましたが、社会人プレイヤーからの助言も歴て、徐々に「仕事を人に任せる」ことを学び、マスターとして成長していきます。
ここでも、過去のホームページ作成のスキルが大いに役に立ちました。一時期、そのゲームの世界内では憧れの象徴となり、ギルドに入りたい人が続出する人気ギルドとなったのです。
壊れていた家庭環境
のうのうとゲームをして過ごしながら、年に2回ほどの連休時には帰省していました。
家でも最高の環境でゲームをやり込むために、デスクトップパソコン一式を持ち帰る狂いっぷりです。
ある時のこと。
帰省してパソコンを弄っていたら、隣の部屋で両親が怒鳴り合っている声が聞こえていました。
離婚届を押し付けあっていたのです。
「もう離婚だ!」と言い張る父
「今離婚したら子ども達が将来結婚した時にどうするのよ!片親じゃ相手方に合わせる顔もないじゃないの!」と主張する母
延々と平行線で進展しません。双方の怒鳴り合う声をずっと聞いていた私は、本当の本当に嫌すぎて
『もうやめてくれよ!!!』
喧嘩を仲裁します。
その一言だけで両親は沈黙し、お互い解散しました。
未だに離婚こそしていないものの、その時以降、家族らしいことを両親揃ってやることはなくなりました。離婚していない理由も「世間体」だけで、しがらみが全くないのならば離婚しているのだろうなと思います。
ゲーム三昧で一人暮らしをしていた自分は知る由もありませんでしたが、引き金は『金銭問題』でした。
- 家計に全く興味がなく全部お任せの、そのくせ自分の趣味で使うお小遣いはガッツリ確保する父
- 生活費が苦しくても相談できず、お金の悩みは全てひとりで抱え込んで、家事を全てこなしながらパートでギリギリまで出稼ぎに行く母
お金にまつわる金銭価値観がズレすぎていたのもありますが、その状況を作った一員は、大学の学費も大きく影響していることは明らかでした。
『もしお金が十分にあれば、もっと笑顔あふれる幸せな家庭だったのかなあ』
お金への執着の原点として脳裏に刻まれるのでした。
一度目の就活と葛藤
「講義」「工学実験」「ゲーム」
私の大学生活はこの言葉だけで表現できてしまうかもしれません。
あっという間に時間が過ぎ、大学3年で就職活動の時期を迎えます。
当時はブログサービス戦国時代で、ブログサービス事業だけで東証マザーズに上場する企業も珍しくはありませんでした。「渋谷ではたらく社長のアメブロ」に代表されるベンチャー企業社長のブログを読んでは「ベンチャーで働いてみたい」と強い関心を示していました。
就職活動への猛烈なモチベーションにより早々に活動を開始します。
東京のIT系企業への就職を希望していた私は、ベンチャー企業を中心に回りつつも、実力を試すために大中小さまざまな企業にエントリーしました。
結果、大学4年の春先には内定をいくつか得たものの、若干数のベンチャー企業、無名企業、あるいは大手メーカーの孫会社がいいところで、大手企業の本社には手も足も出なかったのです。
それもそのはず、エントリーシートを書く過程で、自分自身の経験の浅さを痛感していました。
東京の有名大学を出ている学生達は、アルバイトやサークル活動等を通じて「学生時代に力を入れたこと」のエピソードを多数有しています。
一方の私は
「大学時代に力を入れたこと=ゲーム」
人生に一度きりの新卒カードを使って、安易に就職先を選択してよいのだろうか?
つい先日までベンチャーで頭がいっぱいだったのに、急に不安になり、悩みはじめました。
『奨学金と言う名の借金400万円をちゃんと返せるのか・・・?これまでの人生のように行き当たりばったりでよいのか・・・?』
ここで私は初めて「ちゃんと学生をして、もう一度挑戦しよう」と、初めて自分の意志で決意します。これまでは周りに流されての進学、思いつきでの進学、それぞれ本当の意志ではありませんでした。
大学4年次の夏、受諾していた内定を辞退して大学院へ進学することを決めました。
そう報告した時の母親の反応は、高校3年生の時に大学進学の相談をした時と同じでした。中卒高卒が大半を占めて大学にさえ理解のない親族からは「いつまで学生をやってんだ」とも言われました。
「将来、『あのときに進学を許してよかった』と言ってもらえるよう、恥じない時間を過ごそう」
新たな生活が始まります。
大学院: はじめての意志、はじめての挑戦
学部時代で既に400万の奨学金がありましたが、実家には金銭的問題をこれ以上大きくしたくなかったことから、大学院への進学にあたり更に250万円を追加することになります。学部との違いは、今回は第一種奨学金(無利子)の審査に合格できたことでした。
第一種の場合、卒業時の学業が優秀であれば全額を返還免除される仕組み「特に優れた業績による返還免除制度」があります。
「ちゃんと学生をする」ことを誓った私は、大学院生活での目標を2つ定めました。
- 新卒カードを最大限活用して、優良企業に入社すること
- 奨学金の返還免除を認められる業績をあげること
ゴールからの逆算の戦略
そこからの私は、ゲームを一切断ち、学業に専念します。
大学院での講義、ティーチングアシスタントでの学生指導と労働、民間企業の中堅社員らが参加する官公庁連携教育プログラムで社会人に混ざっての実践型研修、国内学会での研究発表、アジアパシフィック国際会議(インドネシア、台湾)での研究発表、査読付き学術論文誌への掲載。学業以外ではインターンシップへの参加、システム開発受託会社のアルバイトで地元旅館のWEB予約システムの開発、そして情報処理技術者資格の取得。
これら全て、私にとっては「学生時代に力を入れたこと」を充実させる目的達成のための「手段」であり、全力で取り組みました。
そしていよいよ、私の人生では二度目となる就職活動が訪れます。
結果は、連戦連勝の無双状態でした。日本の高度経済成長を支えてきた伝統的な大企業から次々と内定を獲得し、選び放題の状態になります。その中には、学部時代には手も足も出なかった企業がいくつもあり、リベンジも果たしました。
最終的には、日本人ならば誰もが知るであろう大手インフラ企業への就職を決めます。そして奨学金は、目標の全額返還免除には至らなかったものの、半額返還免除として認定されました。大学院進学時の自分との約束を果たしたのです。
「これでもう、お金の心配のいらない、将来安泰の人生を送れるな」
両親はもちろん、祖父母世代も知る大企業だったので、とても喜んでくれました。
私はその時、自分が人生の勝ち組になったと感じ、満足感に浸っていました。
お世話になった教授らに挨拶回りをしていたところ、期待に反する言葉が返ってきます。
「何でそんなつまらない会社にしたの。がっかりだよ。」
明らかに呆れられた顔で言われます。
その一言は、私の時間が一瞬止まったかのような感覚に陥り、大きな衝撃を受けましたが、それ以上に有名企業に入れた喜びの方が上回って浮かれていたので、すぐに忘れてしまいます。
新社会人:はじめての東京生活、そして大企業での社畜化
新社会人としての生活は、初めての東京生活と共に始まりました。新たな環境、新たな仲間、新たな課題。全てが新鮮で、全てが挑戦でした。
関東圏の同期同士は内定後から既に何度も顔を合わせていて、一緒に遊ぶ仲になっていました。彼らと比べて、地方から上京した私は、そのコミュニティに近づき難い雰囲気を感じます。なにより、これまでリアルでの人間関係を最小限に生きてきたコミュ障の自分にとって、それはとても眩しい光景でした。
仲良くなれなくても、そのように皆が同じラインに立ってワイワイとする時間はほんの一瞬。
羨ましさや寂しさを感じつつも、本配属されてしまえば、どうでもよいと自分の感情を押し殺します。
本配属
本配属では、希望通りIT専門の部署に配置されました。昔から触れていたパソコンやインターネット関連のスキルとの相性がとてもよく、社内ではどんどんと評価されていきます。自分のスキルが認められ、そのスキルを活かすことで更に大きな成果を生みだし、良い循環が出来上がります。
「仕事=趣味」とも感じられるほどに目の前の仕事が好きで、終電まで働いて帰ることも全く苦ではありませんでした。仕事に没頭することで、自分自身も成長していくことを実感しました。やればやるほど昇格していくのが楽しかったのです。レベル上げをしているかのような感覚でした。
しかし、その一方で、徐々に何かを失っている感覚もありました。
娯楽と堕落、失われていくSNSマインド
社会人生活はシンプルに「会社で仕事をする」「家で寝る」「飲み会や合コンで発散する」だけでした。
特に、大学までは飲み会の場が極めて少なかったこともあり、東京でのキラキラした生活が眩しすぎて浮かれていたのです。
付き合う人間関係も、身の回りの会社の人が中心になっていきます。
入社以前までは散々発信していた Twitter も、全く発言しなくなりました。大企業内では「セキュリティ重視!安易なSNS発言はご法度!」との教育が頻繁に施され、余計なリスクをとらないために、私はSNSを触らない意識に変化していたのです。
少しずつ、自分の価値観が「大企業の中の村社会」に染まっていくのを感じました。
初めて Twitter に触れた2007年と、2020年代の Twitter では、もはや別物になってしまっている。Instagram にしても、2010年のリリース時点は iPhone で画像投稿するだけの SNS で、Twitter の画像特化版程度の位置づけだったよね?それが、いつの間にマーケティングで重要視されるサービスになったわけ?
ド安定企業という村社会に入り浸るほどに、市場との感覚がずれていくことに気がついたのは2010年代も終わろうとしている頃でした。
働き方の変化からコロナ禍での格差の拡大の実感と危機感
入社から10年も経過すれば多くの仕事を余裕でこなせるようになり、昔ほどの刺激も得られず、マンネリ感を感じていました。「自分の生き方はこれでいいのだろうか?」と、もんもんと過ごしながらも現状を変えられずに時間は過ぎていきます。
私は35歳で管理職になりました。
順調な出世街道
伝統的な大企業では、独特な出世レースのレールが敷かれており、その上を一定の速度で進んでいくことが求められます。昇格試験のチャンスを掴むのに一喜一憂、そして試験に挑戦する権利を得たら全力で試験の準備をして臨み、その結果にも一喜一憂。私はそのレールの上を最速で走り続けていました。
このペースで出世していけば部長職も遠くない、ひとことでいえば「順調」そのものでした。
650万円あった奨学金は難なく返済を終え、入社直後から実家へ毎月一定額の仕送りをし続けていてもまだ余裕がある状況。安定した生活を送りながら、お金に大きく悩むこともなく、高い確率で安泰の人生を過ごすことができるはず。
その一方で、自分自身の成長を実感できないことに対してストレスを感じている自分にも気がついていました。
中間マネジメント職としての責務は毎日が自分の知識を吐き出すことの繰り返しで、これまで一所懸命に働いて蓄積してきたスキルが取り崩されていく感覚に陥っていきます。加えて、上層部に近づくほどに目に見えない派閥を感じられるようになり、関係者皆がより満足できる最大公約数的な答えに着地させることが多く求められました(いわゆる社内政治というやつ)。
自分が信じる正しいと思うことだけでは会社を動かすことはできず、決して合理的とは言えない世界も垣間見えます。
「日本の政治、官僚の世界もこんな感じなのかな」
そう思いながら釈然としない日々を過ごすも
「このままあと何十年このようなことを続けるのだろうか。
65歳の定年まであと25年以上・・・いや、その頃には70歳定年か?だとしたら30年以上か・・・?」
新卒入社から15年でこのような気持ちになっているのに、まだその2倍3倍もの時間が残っているのです。
あまりに長すぎる時間軸に不安を覚えるようになりました。
自分でも気が付かぬうちに「良い会社に入ること」が人生のゴールになってしまっていたようです。
人生に悩んでいると、ちょうど時期を同じくして、アレが全世界を襲います。
COVID-19
全世界を恐怖に貶めるウイルス騒動が勃発しました。この時期から、YouTube の世界をよく見るようになります。
「YouTubeって、ただのエンタメ動画だけの世界ではなかったのか」
衝撃を受けました。
洗練されたユーザーコンテンツ、過熱する競争。
「個人で稼いでいる人たちがこんなにたくさんいる」
ビジネスの世界がどんなに多様であるかを目の当たりにしました。色々な形のビジネスがあり、その中で活躍する人々が皆イキイキとしているのを見て、眩しさを感じました。
「羨ましい」
その一方で、私自身は一つの会社しか経験していないため、外の世界のことを知りませんでした。井の中の蛙です。
振り返ってみると、会社生活で多くの時間を費やした飲み会の席でも、人事異動で誰が出世したとか、誰が異動したとか、誰が失敗したとか、何のためにもならない話で盛り上がる日々。それが私の日常でした。
これら時間を否定しているのではありません。その時は、間違いなく楽しかったです。素敵な仲間とたくさん交流することができました。
しかしこのままでは自分の価値観が広がらない、世界から取り残されてしまうという焦りが日々強くなっていきました。
これまでの上司には恵まれていたけど、今後もし最悪な上司と組むことになったら?
経営者の方針が大きく変わり、自身の人生が振り回されたら?
これらの不安が増えていきました。そして、漠然とした不安や違和感が『危機感』に変化し『焦り』を感じました。
自分はどのように生きたいのだろうか?
年甲斐もなく「自分探し」をしてみてもいいのだろうか?
人生で2回目の「挑戦」が頭をちらつきます。
金の鶏の卵に気が付かない愚かなセンス
これまでの人生を振り返ってみると「チャンス」がいくつもありましたが、いずれも中途半端な取り組みによって、みすみすと逃がしてしまっています。
高校生の時:
- ゲーム機を改造して作業手数料を付加してオークションで売却することを繰り返せば数十万円は稼ぐことができたのに、早々に飽きてしまったこと
- 健康食品を媒介としたMLMビジネス(※注釈1)
- 運営していたホームページに「広告」を掲載すれば月額数十万円〜百万円超規模の収入を得られたのに、ゲームに夢中になり途中で投げ出してしまったこと
- ゲームのレベル上げ代行を計画的にやれば年間数十万円を稼ぐことができたのに、計画が皆無で少額のお小遣い程度で満足してしまったこと
大学生の時:
- ネットゲーム内のアイテムなどの価値があるものを換金する行為(RMT: リアルマネートレードと呼ばれる)(※注釈2)
- WEBシステム開発の知識を活かして、現代よりは圧倒的に競合が少ないアフィリエイトや Google Adsense による数百万円の収益を得ることが可能だったのに、数万円のお小遣いで満足してしまった貪欲さの欠如
社会人となってからは目の前の会社の仕事にのみ注力していたため、学生時代のような挑戦をしていないことに気が付きました。また、仕組みが上手く回っているときには、意図せずにWEBマーケティングの本質を実践していた瞬間もありました。
そう、学生の時の方がよっぽど個人事業主らしい行動をしていたのです。
その一方で会社員となってから副業にチャレンジしてみるも、本業が忙しくなると簡単に停滞してしまいます。大手企業勤めの安定収入の前では「ま、いっか」と、優先度が簡単に下がってしまうのです。
今の自分に足りないのは、
「圧倒的な危機感」
であることを痛感しました。
結び: 新たな道への一歩
「何でそんなつまらない会社にしたの。がっかりだよ。」
教授は「その会社に行っても人生つまらんぞ」と言いたかったのかもしれません。
あの言葉から約15年後、30代の終わりにして、私は新たな挑戦を始めました。
学生の前で壇上に立つことさえできない内向的な人間で、大学の進学さえも周りに流される意志のない人間でも、きっかけと覚悟がひとつ決まれば、人は大きく変化できる。
人生を振り返ったことで、自身の好き嫌いの価値軸も見えてきました。
- ガチガチに制限された狭い世界で束縛されることに対して猛烈にストレスを感じる
- 心底好きになれていない商品を売る行為が相手を騙している気分になるので嫌い
- お金が潤沢ではないことを理由に “本当にやりたいこと” 我慢する選択は嫌だ
あれだけ望んで掴んだ優良企業でも、ここに所属し続けている限りは、これら全てを解消することは不可能であることを認めざるを得ませんでした。
コロナ禍以後、毎日のように「今から遅いのでは無いか」と考えていましたが、何も変わらないまま、時間はどんどん過ぎていきました。
かたや
「今日が一番人生で若い日」
これもまた事実です。
・・・・
『会社の看板ではなく、自分の名前で1つでも多くの仕事をしたい。』
『悩んでばかりいてもしょうがない。やらない後悔よりも、やる後悔をとろう。』
大企業を飛び出して「誰もが知る優良企業の会社員」から「ただの何者でもない人」となり、後ろ盾が何も無い荒野へ一歩踏み出しました。
202X年の現在、後ろ盾がない自分が第一にすべきことは第一に信用を積み上げることです。そのためにWEBマーケティングの技術は必要不可欠です。WEBマーケティングは自身の価値を何百倍にも大きくする増幅器であると信じています。
「発信力ゼロのシステムエンジニア会社員がWEBマーケティングのスキルを手に入れたら稼ぎは増えるのか?」
この仮説検証を自らで実践し、その試行錯誤を発信することで、ひとりでも多くのIT人材・システムエンジニアが「わたしもその生き方やってみたい!」と感じて貰える未来をお届けしたいと思っています。
これからどんな困難が待ち受けているのかは分かりませんが、これまでの経験が私を支えてくれることを信じています。そして、このブログが、同じような道を歩もうとしている人々の助けになれば幸いです。
私の挑戦と成長の記録を綴っていきますので、ぜひフォローして見守ってください!
2024年5月吉日 裕希ヒロ